No.61 1年経った今だからこそ。ね?

 

 さてさて。

本日もやってまいりました。

 

ブログタイムでございます。

 

 

先日夢心で飲みながらね、ちょっとしたゲームをやりましたが。

 

 

やっぱりああいうのは、1年以上やってきた講師が増えてきたからこそ。

出来る遊びってやつですよねぇ。

 

もはやああいうことのために飲んでると言っても過言ではない。

 

という。

 

 

 

ってなことで。

 

 

いつものブログとは違って。

今日はいつもと違う形式でいこうかなと思います。

 

 

⇓にあるものは、とある尖った塾長のブログでございます。

 

色々と共感できる部分はあるんですが。

 

 

皆さんには、このブログを読んだ感想と共に。

 

反論をしてみてほしいです。

 

 

理論的にずれている部分や、前提条件に対して反論してもよいですし。

 

感情的な部分や、あなたの理念に沿わない部分に対して突っ込むでもよいし。

 

 

 

どのような形でも構わないです。

 

あなたなりにね。

 

 

考えてみてください。

 

 

lineで伝えた通り、これをめんめんでの課題とします。

 

楽しみにしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

以下本文。

 

 

 

 

 

勉強する理由 なぜ学歴が大事なのか?

塾に子供が来た時に最初に良くする話があります。それは「勉强する理由」「なぜ学歴が大事なのか」という話です。もちろん、だから「頑張れ!」になるんですけどね。

500人以上個別指導した私の学習と学歴に対する認識

学歴とはなんなのでしょうか? 私は「努力してきた証」だと簡単に思っています。500人以上子供を直接個別指導で教えてきた結論です。でも、この考えには多くの方は賛同されないと思います。その理由も合わせて書きます。

まず、多くの子供と密接に過ごして感じることは、子供の「学習への適性」の差より「努力できる資質」の差がこれほどあるのかということです。これが私の結論の大前提です。受験というのは学校の成績や模試の偏差値という明確な物差しが用意され、いつまでにどの教科をどれだけ頑張らなければいけないかという目標設定も明確にされ、その中での競争です。人から言われたことを、その多くは何の役にも立たないことを愚直に努力することです。

けれど、創造的ではなくそれ程面白くもないが目標は設定されていて、その多くはどうすればいいのか努力の道筋も示されている中で、達成感に喜びを持って愚直に頑張り続けるというのは、ほとんどの企業での、ほとんどの仕事と同じです。よほどのことでなければ研究開発職の仕事にしたって、そんなもんです。

だから、学歴というのは、実務への忠誠を図る上で適切な尺度だと、私は同意せざるを得ません。

私が見てきた生徒たちの「努力の格差」

例えば、関学同志社を余裕で受かる生徒と神戸大になんとか進める生徒に、私はそれ程「頭の差」「能力の差」は感じたことはありません。しかし「頑張り」の差は、驚くほど感じてきています。偏差値も高いし受験科目も多い神戸大学に進むには、努力するだけではなく、多くのものを犠牲にして努力しなければ進めません。クラブを楽しみ友達との交友も充実させて進める関学とは違います。だから、私の塾では神戸大や大阪大に進みたい殆どの生徒に「高校ではクラブを辞めろ」と言います。

圧倒的な努力の較差を数多く見てきた私には、「みんな頑張ってるんや!」「他人を尊重できないお前は・・」という言葉には、どうしても「そうやな」とは言えないんです。 一方で、中堅大学に進むリア充の多くが、上位国立大学に進むクラスメートがどれほど努力しているか分かっていません。だって、「やりたいことを我慢してまで頑張る」なんか自分の経験や理解の外にあるから、そんな努力をしているとは思わないからです。 だから、それぞれの人の頑張りに応じて「よう頑張ったな」と肯定しない私の話は、当然多くの方から賛同してもらえないんです。また、「学歴格差はあるのは仕方がない」という意見に多くの方が賛同しない理由でもあります。

けれど、上位大学に進む生徒は、自分の努力と下位大学に進んだ生徒のしてきたことの差は理解できています。自分の経験と理解の範疇に相手はあるからです。「そら、それだけ楽しんでたらそうなるよな。頭はエエのに・・」となるわけです。

生徒の目から見た「努力の較差」

以前、塾の教え子で同学年で同じ高校から神戸大学関西学院大学に進んだご近所同士の生徒がいました。私立大に進んだ生徒は、学校でバカばっかりやっている神戸大に進んだ生徒を「なんで、あんなのが学年でトップクラスなんだ?頭のデキは不平等だ!」としか思っていなかったんです。上に書いた通りの理由でです。自分が分かっていることしか、人間は分からないんです。

実はこの生徒は、「クラブ楽しんで、塾でちょっと勉強して中堅大学は確実、有名私立大学は難しいというラインに乗ってるんだから順当」という私に嫌気が差して 、 「毎日塾で勉強してもこの程度、バカらしい。」と塾を辞めかけていました。ところが、後から塾に入ってきた国立大志望の生徒が学校の外で死物狂いで努力している姿を毎日目の前で見せつけられて、私が言うことに疑問を挟むことは一切なくなりました。その生徒は「自分なりに頑張る」と言い出し、見事に有名私立大学に進みました。

でも、この話には後日談があります。大学に入ってもその関西学院の生徒は英語の得意な神戸大学の元クラスメートを頼って、「ココ訳して」と自分が授業で当てられそうな英文和訳を聞いていたそうです。そして、ある日、神戸大の学生が私に愚痴って来ました。「自分で調べて、考えてから人に聞くのが筋じゃないの?高校の時から思ってたけど、アイツら、何なん?」上位国立大の学生が企業人になった時に、職場でも同じことが起こると考えるはずです。

私が考える社会での学歴格差の存在理由

これが、「学歴差別」の根源です。殆どが一流大学卒で占められる大企業の人間から見た学生の選抜方法になるわけです。二流大学に行って、いくら面接で「就職したらがんばります、コミュ力には自信があります。私の人間性を判断して下さい。」って言っても「頑張らないといけないところで頑張ってこなかった人間に、コミュ力もへったくれもあるかい。」と思っているんです。だから、面接の時間ももったいないから、多くは書類選考で落とされます。 雇う側からしたら至極当然の選択なのです。でも、その理由が自分の経験や理解の外にある学生にしたら「大学名だけで落とされた。学歴差別だ!」ってことになるわけです。

最近、内部進学や関連校からの指定校推薦が激増して、「早稲田や慶応採用したけど・・・何やコイツら?」というのが増えていると聞きます。頑張り抜いた経験のない新入社員に手を焼いているんです。あるメーカーでは「私立はどういうふうに合格したか分からんから、そんなの雇うくらいなら地方の国立大学優先。」とまで言っているそうです。 その裏側には、これまで書いてきたことが張り付いています。

「イヤ、オレはクラブも頑張ってたから」は言い訳に過ぎない

まあ、ここでよく聞く言い訳は「オレはクラブも勉強も頑張っていたんだから。勉強だけ頑張っていたお前と同等だ。」っていうやつです。私はこういう生徒に言います。「キミのお父さんが、会社もトライアスロンも頑張るっていい出し、残業もしないでトレーニングして、ライバルより仕事が疎かになってリストラされて、『大学進学を諦めてくれへんかなぁ。お父さんはトライアスロンも頑張ってたんやけど、会社は評価してくれへんねん。』って言ってきたら、キミは『このオッサン、アホか?』って思うやろ。キミはそういうことをしてるんや。」

まあ、簡単に言うと、趣味にのめり込んで本業を疎かにする人間など要らないわけです。

学歴格差と運動部重視は同じ

「頑張れる証拠」を持っている高学歴の学生を雇えない中小企業では、同じく「頑張れる証拠」を持っている厳しい運動部出身の学生を率先して雇う企業があるわけです。「箱根駅伝走りました。」は「死物狂いで練習した」と同義語です。会社に入っても頑張ってくれると期待できるからです。厳しい営業を任せても頑張ってくれたと、過去の採用実績があるからです。

上のトライアスロンの例では、「オッサンで仕事を犠牲にしてトライスロンをするんなら、趣味ではなく早死する覚悟で中年の星として有名になるまで追い込んで、スポンサーでも取ってこい。」という話です。適当な運動部で楽しんで「コミュ力は鍛えられました。」だけでは、何のアドバンテージにもなりません。

学歴格差に見る変人と兵隊

尚、上の理屈は偏差値70以上の生徒には当てはまりません。異様に学習適性が高くて、「努力しないでも京大」、「感覚で数学解いて偏差値70」、中には「ちょっと変わってるってオーラが出てる」っていうのも多いですから。大学の先生や官僚、医者を見てたら分かりますけど、極端な高学歴では「頭がいいけど・・ちょっと使えない。」「ちょっと常識なくない?」っていう方も多いわけでです。逆に言えば、人一倍の結果はないけど普通に話が通じて頑張りがきく神戸大は一流企業の兵隊として重んじられるわけです。

だから私は学生の能力を見るには、学歴に加えて小論文を書かせるほうが適切だと思います。これについては、また後日書きたいと思います。

 

 

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